Inside Tennoji Park, 1-1 Chausuyama-cho, Tennoji Ward, Osaka, 543-0063, Japan

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庭園について

慶沢園は、1926年(大正15年)に、江戸時代から続く大阪の豪商住友家15代住友吉左衛門友純(号は春翠)から、本邸とともに大阪市へ寄贈されました。
園内は、大きな池に中島が浮かび、その三方には築山が配されて、変化に富んだ地形を作り出しています。池の周りには園路や飛石、橋が巡らされ、茶室や四阿が点在しています。慶沢園と同じ時期に寄贈された住友家本邸の跡地には、現在大阪市立美術館の本館が建っており、庭園の奥からはその美しい姿を一望することができます。自然と歴史が調和した、趣深い庭園の散策をお楽しみください。

住友春翠
出典:住友春翠(国立国会図書館)

住友家15代目 住友吉左衛門友純(春翠)について

慶沢園を大阪市に寄贈した住友家第15代当主、住友吉左衛門友純(ともいと)は、「春翠(しゅんすい)」という号を持ちました。(以下、春翠と表記)京都の名門・徳大寺家から住友家へ養子として迎えられた春翠は、家業の発展に尽力する傍ら、社会事業にも深く関心を示しました。春翠は、関西を代表する近代の数寄者(すきしゃ)の一人として、美術、建築、そして庭園にも深い造詣を持っていました。慶沢園の随所に見られる美意識は、まさに春翠のそうした感性から生まれたものです。

その後1895年(明治28年)からこの地にて用地買収を開始し、1908年(明治41年)に着工しました。本邸を鰻谷(現在の大阪府大阪市中央区心斎橋付近)から移転した際、 「恵沢園」と命名しました。これは 伏見宮貞愛親王(ふしみのみやさだなるしんのう)より賜った名が由来となっており、「照代之恩恵、祖先の余沢」の意から定められた名前です。その後、1918年(大正7年)の完成時に 「慶沢園」の字へと改められました。

慶沢園と植治の技法について

慶沢園の作庭を手がけたのは、「植治(うえじ)」の号で知られる七代目小川治兵衛です。(以下、植治と表記)植治は明治時代を代表する造園家で、平安神宮神苑、円山公園、山縣有朋の別邸である無鄰菴など、数々の名庭を生み出しました。
植治は、伝統的な日本庭園の技法に加え、西洋の近代的な造園技術や様式を取り入れ、新たなスタイルを確立した人物としても知られています。慶沢園にも、植治の革新的な発想と卓越した技術が随所に息づいています。庭園を巡りながら、植治が創り出した独自の美の世界を感じてみてください。

春翠が植治に作庭を依頼するようになったのは、平安神宮神苑の素晴らしさに深く感銘を受けたからだと言われています。
植治は慶沢園の作庭に着手する前、春翠とともに金沢の兼六園を視察しています。また、岡山の後楽園や高松の栗林公園といった大名庭園を参考にして慶沢園が造られたと考えられています。
植治は慶沢園の他にも、住友家の各別邸の造園を数多く手がけ、その卓越した技術と美意識で、近代の日本庭園に大きな足跡を残しました。

第7代小川治兵衛

平安神宮神苑、円山公園、無鄰菴など数々の庭園を手掛け、近代造園のスタイルを確立したと称えられる造園家。

第7代小川治兵衞
出典:小川治兵衛(国立国会図書館)

純日本風の林泉回遊式(りんせんかいゆうしき)庭園

慶沢園は、大名庭園に多く見られる林泉回遊式庭園という様式で造られています。これは、池を中心に園路を巡りながら、変化する景色を楽しむことができる庭園のことです。
園内に入ると、白い石が広がる州浜が目に飛び込み、その奥には広大な大池が広がります。池の中央には黒松が植えられた中島が浮かび、点々と配置された岩島が、まるで壮大な大海原を思わせる景観を作り出しています。
池を眺めながら園路を歩けば、北東の築山や、その麓に豪快に流れ落ちる大滝、そして池畔に佇む四阿など、見どころが次々と現れます。池の周りをゆっくりと散策し、移り変わる慶沢園の美しい風景を心ゆくまでご堪能ください。